とにかく「逃げる」、「逃げる準備をする」


佐藤 寿さん
 妻が、娘が母が帰ってこない。
いいようのない恐怖に眠れず、大勢の人がいる避難所の体育館にたった一人だけ寝ているような気がして寂しい、苦しい日が何日も続いた。
体育館では、ルールも何も無視したように、勝手気ままなふるまい、大声で叫び、怒鳴るなどしながらも、互いを気づかい、協力しあう不思議な体制、コミュニティーがあった。
あの日々から一年半、二度目の盆も過ぎて自分達の生活も少し落ちついてきたような気がする。

 仮設住宅での生活も順調で、狭いのが難だが ・ ・ ・ 。
しかし、ここ仮設住宅にいる間に、次の、これからの生活設計を作らなくてはならない。
 大槌町の復興事業では、赤浜が先頭をきっているとのことだが、進んでいる感じは薄く、先のみえない現状のなかで、自分では何ができるかわからず、あせり、いらだちも感じるがそれがやり場の無い気持になり後向きの気持になる時もある。だけど時は必ず再生した街を作る。
 その為にも人任せではなく、日々できることを気負わず、すこしずつ確かにやっていこうと思う。
たまにはコケたり、泣きたくなる日もあるだろう、性根がとわれる日もあるだろうな ・ ・ ・ 。

 娘は震災から一週間後、無事戻ってきた。
職場のリーダーが「何もなければもどれば良い。とにかく避難!」をさけび、裏山に逃げたとのこと。
誤った過去の経験からの思いや、油断で多くの方が亡くなったことを思えば適切な判断だったと思う。 
復興を進める時によく「海がみえない」ことが話題になるが、とにかく「逃げる」、「逃げる準備をする」ことを優先して考えるべきだろう。海水の変化をみてからでは今震災の二の舞も ・・・ 。
 後に全国で発生する災害時に避難が軽視されているようなことをマスコミ報道で見聞きするにつけ非常に残念な気持です。他人事ではないのです、自分のことなのです。

 入院中だった母は、転院先の病院で一ヶ月後に亡くなった。
 被災後、自衛隊や全国の多くの方々の献身的な支援活動や、今日まだ続く物心両面にわたるご支援は、ともすればくじけそうな気持をしっかりささえてくれて、たいへんありがたくおもいます。
 支援、ボランティアの方々の活動については語るまでもないが大きな力をもらっています。
私達は今後けっして忘れることなく生きていかねばなりません。

 被災後に遺体でみつかった妻は、雪の横手市で荼毘にふされ去っていった。

                           佐藤 寿

沖縄からのメッセージ ありがとうございます!


沖縄からのメッセージ「沖縄から応援しています。チバリヨー」、「あれから一年。一早く復興できるよう心よりお祈り申し上げます!!!」・・・・とたくさんのメッセージが沖縄から届きました。沖縄の「クリアノワール株式会社」のみなさんが、復興キャンペーンを行いメッセージ、募金を集めて赤浜に送ってくださいました。
遠いところからの応援、本当に全国の方々が心配してくださっていたのだと心に染み入ります。メッセージを書いてくださった方々、募金してくださった方々、応援してくださっている方々、そしてクリアノワールのみなさん本当にありがとうございました。
メッセージは模造紙に貼り赤浜のお寺に貼らせていただきました。お寺?って思われるかもしれませんが、お盆の最中もっとも赤浜の人々が訪れる場所です。たくさんの赤浜の人達に読んでいただくよう、この場所とさせていただきました。お盆が終わったら、仮設住宅の集会所に展示する予定です。

それぞれのメッセージは以下の画像をクリックしご覧ください。

沖縄からのメッセージ1 沖縄からのメッセージ2 沖縄からのメッセージ3 沖縄からのメッセージ4 沖縄からのメッセージ5

感謝♡感謝


柏崎 広子さん

仮設住宅の前にて

 忘れもしないあの日 3・11、その日私は仕事が休みで自宅におりました。あまりの揺れに「津波が来る!」と直感し、とりあえずの荷物を持ち赤浜小学校に避難しました。
 職場は山田町にある老健施設でしたが、大きな被害にあい職員利用者ともに多くの方が亡くなりました。本来ならばすぐにでも駆けつけなければならなかったのですが、震災直後から赤浜地区は孤立してしまい、私自身も家を流され車も失い、もうどうすることもできませんでした。連絡の取りようもなく職場の方々には本当になんとお詫びしてよいかわかりません。その後職場の事務長さんから震災後避難所にお手紙が届きました。「これからは、あなたはあなたの人生を大切に歩んでください。いままで本当にご苦労様でした。…」との内容が書かれていました。まだまだ落ち着かない時期で私はその手紙に涙し、亡くなられた職員、利用者の皆様のことを胸にとてもつらかったことを思い出します。しかしその手紙をきっかけに私は看護師として、「今、私ができることをしよう」という思いをさらに強くしました。
 瓦礫と化し、燃え盛る大槌町を眼下に医師を探して回った時、これはただ事ではないと実感し、と同時に先の見えない大きな不安を覚えました。それでも少しの衛生材料と血圧計等をやっと手に入れ、ケガをされている方や体調不良を訴える方の対応に追われました。かたわらで、赤浜地区の男性や中高生等は沢水を運んだり、手作業で道を作ったり、女性たちは食糧を何とかしようと、まさに生きるための作業が行われました。医療団が赤浜地区に入ったのは震災後1週間ぐらいたってからでした。この1週間はただただ無我夢中で過ごしていたように思います。その後医療団や保健師さん等の連絡調整、薬の管理、避難所内の保健衛生等の役目をいただき、私のできる範囲でさせていただきました。自衛隊、大阪、静岡、秋田、神奈川、青森など・・・本当に多くの方々に助けていただきました。心から御礼申し上げます。
 私の家族は皆無事でした。現在仮設住宅で暮らしております。長女は高校を卒業し専門学校に通うため、この春から千葉で一人暮らしを始めました。長男は今年地元の高校に入学し、野球部で毎日真っ黒になって帰って来ます。そんな子供たちの成長に「力強さ」「たくましさ」を感じ、元気をもらいつつ、私もこれから仕事に就く予定です。もちろん「看護師」として・・・。
 なかなか進まない「復興」ですが、私個人としてはとりあえず目の前のひとつひとつを大事に、自分のできることをあせらずにやっていこうと思っています。
 私と関わって下さった全ての皆様、本当にありがとうございました。

パンジー

柏崎 広子

平成24年5月

後世に伝えたいこと


佐々木洋子さん

新緑の季節、ご主人の船「金勢丸」の前で

 2011年3月11日、私は大槌町で被災を受けました。今まで経験したこともない大きい揺れに直観的にすぐ津波が来ると思いました。私の主人は漁師なので日ごろから大きな地震がおきたら津波と思えと教えられていました。
 たまたま外出先で、同じ赤浜の人に一緒に赤浜に帰りましょうと声をかけられ車に乗り赤浜に戻りました。
家はすごい有様でした。家の前には自家用車があり一瞬この車で逃げようかと思いましたが、すぐに北海道奥尻島の津波の事を思い出しました。奥尻では海岸に沿って、車で逃げた方が津波にのみこまれてしまい、尊い命を落としたのを思い出し、すぐさま足で裏山の高台に避難しました。
 その後、避難生活を送り、その中で一番分かった事は、今まで飽食で分からなかったけれど食べる物があるという事が本当はすごくありがたい事だと分かりました。私は戦後の食糧難を経験しており、一日一個もらったおにぎりを半分食べ半分は次のおにぎりをもらうまで残していました。おにぎり半分でもあれば安心して人にもやしくできたような気がします。
 そして今回の震災では、全国からの支援、自衛隊の方々、ボランティアの皆様のおかげで家は流されてしまいましたが、頑張ろうという気持ちになりました。日本の自衛隊、ボランティアは世界一と思って、感謝しています。
 今は赤浜の仮設住宅に移り、心に少し余裕ができ、今生きてることに感謝をし後世に津波の怖さを伝えていかなければと思っています。でも、海は私たち漁師にとって、生きる糧であって、共存していかなければなりません。歴史からみても三陸は津波が繰り返しており、大きい地震が来たらすぐさま高台に逃げること、欲張りすぎず高台に逃げたら家に戻らないことを親から子へ子から孫へと伝えていくことが大切だと思っています。
 今まで支援してくださった皆様に恩返しするためにも、一人一人が自立し、本当の意味で復興するように一歩ずつ前進し夢を持ち、歩みたいと思っています。

カーネーション

2012年5月 佐々木 洋子

 

 

 

 

 

ご支援へのお礼の言葉

神田 実潤

三月十一日の東日本大震災で、ぼくの家も小学校も失ってしまいました。道ががれきの山でふさがり、何が何だか分かりませんでした。大人達は、道を作ろうとがれきを手作業で片づけたり、飲み水を運んだり、飲まず食わずでがんばっていました。地域の、おばちゃん達は朝、昼、夜と炊事に追われる毎日でした。ぼくは、この先どうなるんだろうと思いましたが、避難所にいるだれもが、口にはしませんでした。
しかし、全国のみなさん、自衛隊のみなさんから、たくさん、たくさん支援していただき、エビフライやからあげなど、とてもおいしかったです。勉強道具や洋服など、すべての一つ一つが、ありがたく感謝しています。
そして、お医者さんや警察官、たくさんの人と出会い、元気と笑顔をもらいました。
全国の皆さん、ありがとう。ありがとう。

神田実潤 卒業式花道

卒業式花道

赤浜小学校6年(平成24年3月卒業)
神田 実潤(まひろ)

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